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本日休日也

土曜出勤の振り替えで平日休みである。


昼めしは家から一番近くにある店に行った。

ここに引っ越して来て11年。1度だけ行った事のある中華屋さん。

ラーメン、餃子はもちろん、カレー、カツ丼などがメニューに並ぶ。

かなり高齢と思われる爺様と婆様の店だ。昭和の香りというより匂いのする店。

餃子とチャーハンを注文して新聞を読みながら待つ事20分弱。。。

暇な男なので問題ないが1時間しか休みがなかったら厳しい待ち時間。

餃子は翡翠餃子かと思うほどに緑色をしている。

見ると皮に何か練り込んでいるのではなく、具のニラが皮に透けているらしい。

食べてみると具の8割はニラじゃないかってほどに入っている。

ニラは大好きだけど、もう少し減らしても良いかも。。と思った。

不思議なのは醤油と酢はテーブルにあるがラー油はあらかじめ皿にたらしたものが出て来る事。

ラー油好きやラー油嫌いは悲しい気持ちになりそう。


続いてチャーハン登場。

ちょっと焦げ風味がついてしまっているが油っぽくなく、なかなか好きなタイプ。

炒飯と言うより焼き飯なんだと思う。

そして、更に昭和の匂いをさせるのが、炒飯にセットで付くスープが味噌汁(大根&油揚げ)であること。

でも、うす~い中華スープを出すなら味噌汁で正解だと私は思う。

それにしてもなんで炒飯のスープは味付け薄めなんだろう?だいたい美味しくないよね。

値段は炒飯餃子で990円・・・・チェーン店値段に慣れていると重いけど、楽しめたので良し。


料理以外に気になるのは爺と婆が夫婦でななさそうだという事。

2人の会話を聞いていて思ったんだけど、爺は雇われているみたい。

婆の公務員バッシングに「はい」「はい」と相槌をうつ爺なのでありました。


そういえば店の名前なんて言うんだろう。暖簾にも書いてないし、表に看板も出てなかったな~。

# by awazi13 | 2013-10-18 13:16  

野音の思い出

1977年夏 16歳の私は日比谷公会堂の売店で売り子のバイトをしていた。

公会堂での催しが休憩に入ると観客が売店にコーラや菓子類を買いにやってくる。

当時コーラなどは瓶から紙のカップに移し替えての提供。

冷えたジュース瓶を出し栓を抜き紙コップを被せ、そのまま瓶とコップごと逆さまにして注ぐ。

両手を使って2本同時にやったりする。

そんなアルバイトをしていた時の事・・・

日比谷野音の人出が足りないから誰か手伝いに来れないかと売店に電話が入った。

店長に言われてすぐ私と友人は野音に向かった。

ジュースの運搬やらコーラマークの入った氷と水を入れた冷水庫?に物を並べたらりした。

物が来ないから少し休憩ってんで、観客席へ。


その日は何バンドか出る夏のイベントだったと思う。

ステージでは女の子バンドがリハーサルを行っていた。

当時はランナウェイズというアメリカの女子バンドが流行っていて、その日本版の様なバンドがあった。

フォーク少年だった私は大した興味もなかったが、その日ギターを弾いているお姉さんには惹きつけられた。

キレイな顔立ちでロックなギターを弾いていた。バンドの名前は確かガールズ。

そして、そのギタリストが後のジューシー・フルーツのイリアだった。


今日はバイトしながら音楽も楽しめる!なんてラッキーなのだと喜ぶもつかの間、

販売のお助けマンが来るから公会堂へ戻って良いというお達し。

結局、ガールズのリハを聴いただけで終わってしまった私の野音初体験。

その後、日比谷野音は数回ライブを聴きに訪れているが、木々に囲まれ、

ホールとは違う独特の空間が好きだ。

もちろん雨だって降る。

雨は降るもんだという心構えでみんな行く。

そして、そんなコンサートは心に残ったりする。

今、いつかあのステージに立ちたいって思う私は高校生より世間知らずなんだろう。

# by awazi13 | 2013-07-15 11:59  

ボケ’s 80

今、周りで「kinちゃん」と呼んでくれる人はひとりしかいない。

もうどこへ行っても長老組なのでみんな「さん」付けしてくれる。


昨夜は結成30年の会。

もともとは、とある小学校開校時の教職員の集まり。

当時、若手だった先生二人もここで定年。

その退職を祝う会が行なわれた。

集まったのは18人。平均年齢70歳、久しぶりの最年少。

この会の中では今も「kinちゃん!」

久しぶりにみんなに呼ばれて随分若くなった気がした。


最高齢が81歳。

男性1人女性3人の方がいらしたが、それぞれの81歳。

とても81には見えない若い方もいれば、立ったり座ったりにご苦労される方もいる。

まあでも、呑みに来ようというのだからみなさん元気。

うちの親父が生きていれば今年80歳。

成人病と呼ばれるほとんどの病気を経験して71歳で逝った。

母親も70歳で他界しているので、自分も生きて70までだと思うようになった。あと20年だ。

でも昨日、みなさんにお会いして元気でボケずに80歳。目指したいな・・と。

その為にはぼくの場合酒を止める。

これが一番手っ取り早い方法ではあるが、実行は難しい。

減らす+運動で勘弁してもらおう。


ボケの方は?・・ウクレレにボケ防止効果ってあるのかな?

ただ弾いているだけじゃ大したこともなさそうだけど、

ステージに立つというのはかなりその効果が期待出来そうではある。


会のみなさんがいつまでもお元気で、
ぼくがいつまでも「kinちゃん」でいられますように。

# by awazi13 | 2011-08-17 21:54  

校庭に降る雪

1976年都立高校願書提出の日に雪が降った。

ぼくは同じクラスの仲間3人でその高校へ願書を出しに行った。

そいつらは別にバンドを組んでいたわけではないが音楽仲間であり、よくギターを弾いて遊んでいた。

ひとり飛びぬけて巧い奴がいて、そいつにいろいろ技を教えてもらっては弾いていた。

中3の文化祭で当時流行っていた、風の「22歳の別れ」をフォークソングクラブの7名で弾き語った。

恐ろしい事に7人ともアコースティック・ギターだ。。。

ボーカル&ギター1人、リードギター1人、あとは伴奏。

リードは飛びねけ巧い奴が担当。

きっとチューニングも全員がピッタリだったわけもなく・・

聴いていた人たちはさぞかし辛かっただろうと思う。

でも本人達は初ステージに満足していた。

ぼくは伴奏オンリーのくせにかなり鼻高々であった。


そんなボーカルと飛びぬけと3人で願書を出しに行った。

高校へ行ったらバンドを組もうなんて言いながら・・

ギター3人で何がバンドだ?フォークトリオじゃないか!と思わなくもな

かったが、その時は夢の中にいた。


願書を提出して、学校へ戻り教室へ向かう。

近場提出の奴らはもう帰宅しており、僕たち以外教室には誰もいない。

帰ろうと言いながらも誰も帰ろうとはせず、教室の電気も点けずに机に腰

掛けくだらなくも大切な話をしていた。


ボーカルと話が途切れた時、飛びぬけはひとりで窓を開けて校庭に積る雪

を見ていた。

ふたりで近寄ると彼は

「雪だよ・・」

「ここで見る最後の雪かもな?・・・・・憶えておこうぜ」

外の雪から目をそらさず大真面目に言った。

この時の雪の反射でレフ板あてた様に白く映った彼の顔と白い鼻息は忘れない。

3人はそれから暫く校庭に降る雪を見ていた。


結局、3人は同じ高校へは行かずフォークトリオは組めなかったが・・

おい、ふたり!俺はあの日の雪、忘れてないぜ!

# by awazi13 | 2011-03-03 22:01  

紙芝居

紙芝居は外で飴玉しゃぶりながらではなく、保育園で座って見た。


昭和5年に誕生した街頭紙芝居は昭和10年前後に1次の最盛期を迎えたが、

戦争による子供達の疎開や演者の召集などで衰退。

戦後すぐに盛り返すもTVの出現で昭和28年をピークに急激に衰退していった。

ぼくが盛んに遊んだ子ども時代は昭和40年代だから、まだ多少は演者がいただろう。

しかし、街頭紙芝居を見たという揺ぎ無い記憶がない。

記憶の中のスクリーンにそんな風景がゆらゆらとぼやけて見えている様な気がするが、

これはTVなどで観たそんな場面が現実と摩り替わっているのかもしれない。


保育園での紙芝居は「黄金バット」などの娯楽スペクタル物ではなく

教育の一環としての紙芝居だった。

いくつかの話があり、先生が3日に1回だか1週間に1回だか忘れたが、読んでくれるのだ。

大半は面白いものではなく、退屈な時間だった。

しかし、ひとつだけ最高に楽しいやつがあった。それが赤痢菌の紙芝居である。

内容は確か手を洗わないでご飯を食べた子供が赤痢菌に感染して、苦しむというもので、

みんなも手を洗わないとこの子みたいになっちゃうよ!って感じの話だったと思う。

紙芝居の時間に先生がみんなに聞く「なんのお話が良いですか?」

すると園児達は一斉に「せーきーり~!」


「赤痢はこの前話したじゃない、今日は違うのにしようよ」なんてことを言う。

「だったらはじめから聞くんじゃね~よ!」とは、この頃は言わない。

こういういけない言葉を吐くにはまだ10年の歳月が必要だった。

可愛いぼくたちは「えーー!」と遺憾の意を表明して終わる。

そして、先生は少数派の意見を取り入れて何だか違うものを読んでくれた。

こんなふうに子供達には絶対の人気を博していたのが「せきりのななし」だったのだが、

先日、職場で何かの話のついでにこの事を言ったら、ひとつ歳上の姉さんが反応してくれた。

彼女はぼくと住んでいた地域は違うがこの紙芝居を通っていた幼稚園だか保育園で見たという。

やはりそこでも人気があったそうだ。

もしかしたら当時、東京中の、あるいは日本中の子供がこの紙芝居を

見ていたのかもしれない・・・なんて事を思った。


紙芝居の中の赤痢菌は黒くて槍を持った姿をしていた。

誰にでも容易に想像できる悪魔の姿なのだ。

これが手洗いしない子の手や食べ物に付いて不敵な笑いを浮かべながら口から入って行き、

体の中で悪さをする。しかしそれが、石鹸で手を洗われると手に付いているこいつらは

泡の中で非常に困った顔をしたり弱ってしまったりするのだ。

ぼくたちはそれを見て喜ぶのである。

勧善懲悪?悪が滅びるという子供達の好きなヒーロー物の要素がちゃんと入っていた。

こんなところに子供たちは引きつけられたんだろうな。きっと。

もう一度観てみたい、それは赤痢菌の紙芝居なのだ。

# by awazi13 | 2009-12-13 16:23